夕焼け駅の子どもたち
町の西側には、もう使われていない古い駅があった。
名前を「夕焼け駅」という。
もちろん正式な名前ではない。昔、夕方になると駅舎全体が赤く染まるので、いつのまにか子どもたちがそう呼ぶようになったのだ。
線路は錆び、改札には蜘蛛の巣が張っている。ホームの時計は午後五時十三分で止まったままだった。
それでも町の老人たちは、ときどきこう言った。
「あの駅には、今でも列車が来る」
もちろん誰も信じなかった。
子どもを脅かすための昔話だろうと思っていた。
十三歳の少年、秋庭湊もそうだった。
湊は夏休みのあいだ、毎日のように町を歩き回っていた。川辺で石を投げたり、駄菓子屋でアイスを買ったり、図書館で涼んだり。田舎町の夏は退屈で、永遠に長かった。
ある夕方、湊はひとりで夕焼け駅へ向かった。
空には入道雲が浮かび、セミの声が線路の向こうまで続いている。
駅舎の木の扉を押すと、乾いた音がした。
待合室には古い長椅子が並び、床には夕日の赤い光が落ちている。
そのときだった。
カラン。
どこかで小さなベルが鳴った。
湊は顔を上げた。
ホームの向こうに、小さな少女が立っていた。
白いワンピースを着ている。
年齢は十歳くらいだろうか。
見たことのない子だった。
「誰?」
湊が聞くと、少女は不思議そうに首をかしげた。
「列車、待ってるの」
「ここ、もう電車来ないよ」
「来るよ」
少女は当然のように言った。
湊は少し気味が悪くなった。
だが少女は笑っていた。
夕焼けの中で、その笑顔だけが妙に明るかった。
「名前は?」
「ナツミ」
「この町の子?」
「違うよ」
「じゃあ、どこから来たの」
ナツミは少し考え、それから言った。
「遠く」
夕方の風がホームを吹き抜けた。
線路脇の草が揺れる。
その日はそれだけだった。
湊が帰るころには、ナツミはどこかへ消えていた。
翌日も、少女はいた。
そして次の日も。
彼女はいつも夕方になると現れ、ホームへ座って線路を見つめていた。
「ほんとに列車なんて来るの?」
湊が聞く。
「うん」
「いつ?」
「もうすぐ」
だが列車は来ない。
聞こえるのはセミの声と、遠くの川の音だけだった。
それでも湊は、毎日駅へ通うようになった。
ナツミと話していると、不思議と退屈しなかった。
彼女は妙なことをたくさん知っていた。
「昔、この町には夜空を渡る広告船が飛んでたんだよ」
「何それ」
「大きな光の船。空に文字を書くの」
「飛行機じゃなくて?」
「飛行機じゃない」
また別の日には、こんなことを言った。
「海の向こうには、ガラスでできた都市があるんだって」
「映画みたいだな」
「うん。きれいだよ」
湊は笑った。
ナツミの話は、まるで夢みたいだった。
だが彼女は嘘をついているようには見えない。
夏休みも終わりに近づいたころ、湊は祖父にその話をした。
祖父は庭でスイカを食べながら、しばらく黙っていた。
「白い服の女の子か」
「知ってる?」
祖父は小さく頷いた。
「昔もいたよ」
「え?」
「わしが子どものころにも、同じ話を聞いた」
湊は笑った。
「またまた」
「本当だ」
祖父は真面目な顔だった。
「夕焼け駅には、ときどき変な子どもが現れる。昔からそう言われてた」
「変な子ども?」
「みんな、“列車を待ってる”って言うんだ」
風鈴が鳴った。
庭へ夏の夕風が吹き込む。
祖父は種を皿へ吐きながら、小さく言った。
「でも、ある日いなくなる」
その夜、湊はなかなか眠れなかった。
窓の外では虫の声が続いている。
ナツミはいったい誰なのだろう。
翌日の夕方、湊は急いで駅へ向かった。
空は真っ赤だった。
燃えるような夕焼けが町全体を染めている。
ナツミはホームの端へ立っていた。
「今日、来るよ」
彼女が言った。
「列車?」
「うん」
湊は線路を見た。
もちろん何もない。
だがそのときだった。
遠くから、低い音が聞こえてきた。
ゴォォォン……。
雷みたいな、風みたいな音だった。
線路が微かに震える。
湊は息を呑んだ。
夕焼けの向こうから、光が近づいてくる。
それは列車だった。
だが普通の列車ではない。
車体は銀色に輝き、窓の中では青い光がゆっくり流れている。
音もなく、宙に浮くように線路の上を滑ってきた。
湊は動けなかった。
列車はホームへ静かに停車する。
扉が開いた。
中には誰もいない。
ただ柔らかな白い光だけが広がっていた。
ナツミが振り返る。
「じゃあね」
「待って!」
湊は叫んだ。
「どこ行くんだよ!」
ナツミは少し困ったように笑った。
「帰るの」
「どこへ?」
少女は空を見上げた。
夕焼けの空には、一番星が光り始めている。
「未来」
湊は意味がわからなかった。
「未来って……」
「ここ、昔の町だから」
ナツミは静かに言った。
「私たちの時代では、もう残ってないんだって」
風が吹いた。
彼女の白いワンピースが揺れる。
「だから、夏休みだけ来られるの」
湊は何も言えなかった。
ナツミは続ける。
「昔の夕方を見たい子どもが、たくさんいるから」
列車の光がホームを照らしていた。
赤い夕焼けと、白い光が混ざり合う。
「未来って、どんななんだ?」
湊が聞く。
ナツミは少し考えた。
「きれいだよ」
「楽しい?」
「うん。でも……」
彼女はホームを見回した。
古いベンチ。
赤い屋根。
止まった時計。
セミの声。
「こういうの、少ないんだ」
列車の扉が静かに閉まり始めた。
ナツミは慌てて乗り込む。
そして窓越しに、湊へ手を振った。
「また来るね!」
次の瞬間、列車は音もなく走り出した。
銀色の光が夕焼けの中を滑っていく。
そして遠くで、小さな星みたいに消えた。
駅には再び静けさだけが残った。
セミの声。
風の匂い。
止まったままの時計。
湊はしばらくホームへ立ち尽くしていた。
やがて空の赤色が薄れ、町に夜が降り始める。
遠くで夕飯の匂いがした。
そのとき湊は、初めて少しだけ寂しい気持ちになった。
夏休みが終わるときのような。
何か大切なものが遠ざかっていくような。
それから何年も経った。
夕焼け駅は取り壊され、跡地には新しい道路ができた。
町も少しずつ変わっていった。
コンビニが増え、古い駄菓子屋はなくなり、川沿いの空き地にはマンションが建った。
湊は大人になり、別の町で働くようになった。
だが夏の夕方になると、ときどき思い出す。
赤いホーム。
白いワンピース。
そして、未来から来た列車の光を。
ある年の夏、久しぶりに故郷へ帰ったときだった。
湊は新しくできた道路の脇で、小さな少女を見かけた。
白い帽子をかぶり、空を見上げている。
少女は湊に気づくと、にっこり笑った。
「ねえ」
「ん?」
「ここって昔、駅があったんでしょ?」
湊は驚いた。
「どうして知ってるの?」
少女は答えなかった。
ただ、夕焼け色の空を見ながら言った。
「昔の夏って、きれいだね」
その言葉だけを残し、少女は人混みの向こうへ消えていった。
湊はしばらく動けなかった。
遠い空で、飛行機雲が赤く染まっている。
まるで、夕焼け駅へ向かう銀色の列車の跡みたいだった。